2011年12月19日月曜日

3日目 東2 P-06a


新刊『信長の肖像Ⅱ』、印刷所に入稿完了しました。
歴史マンガ(戦国時代)の批評本、第二巻です。
今回は少年マンガがメイン。
本体仕様は、第一巻と同様、B6の160ページです。

12月31日(土)コミックマーケット81
東2ホール P-06a サークル名「ヴァイタルエリア」

2011年12月11日日曜日

『ダークサイド・ムーン』に見た、3D映画の可能性


ロボ同士のドツキ合い

師走になると、今年読んだ本や、観た映画のなかで
何がナンバーワンだったのかを振り返るのが習慣になっている。
作品の質では『冷たい熱帯魚』か『キックアス』だと思うが、
もっとも印象に残ったものとして
『トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン』を挙げないわけにはいかない。

内容は、変形ロボ同士がボコボコにドツキ合うだけの、
IQの低~いアクション映画だ。

上記のトレーラー(予告編)を見ると
アポロ11号の月着陸に関する陰謀史観というか、
史実改変モノの臭いを感じることもできるだろう。
史実を元にしたフィクションは、
映画なら『ウォッチメン』ほか多数、ゲームでも『アサシンクリード』など、
現在のアメリカン・エンタテインメントのトレンドとも言える。

しかし、そうした設定はすべて置き去りにして、
結局はただのドツキ合いに終始する。
序盤から伏線を張り巡らせているかのように見えて、
終盤はストーリーを終息させるためのご都合主義が目立つ。

それでも、3Dで見るドツキ合いは、なにしろ楽しい。


子どもの頭の中の妄想を、そのままご開帳したような映画

普段、映画を観ていると、どうしてもストーリーラインばかり追って、
その監督の主義や主張、物語上の仕掛けばかりに目がいってしまう。
しかし、映画本来の魅力のひとつには
「誰も見たことがないものを見せる」という機能もあるはずだ。

変身ロボ同士がバカでかい拳でひたすらドツキ合ったり
ビルがねじ切れて倒壊していくシーンなどは、
基本的には〝子どもの発想〟だ。
おもちゃ箱をひっくり返して、フィギュア同士を戦わせ
ブロックやレゴで作ったセットを破壊する……。
男だったら、子どもの頃に誰もがやった記憶があるだろう。
子どもが脳汁を垂れ流しながら夢中になる遊びが、
3Dの、それもIMAXシアターで見られるのだから、楽しくないはずがない。
あまりに楽しすぎて、上映時間157分の長丁場を、
2回連続(合計314分=5時間超)で見続けてしまった。
こうなると、もはや中毒だ。

とはいえ、「2Dで観ても、まるで面白くないだろうなぁ」
と思ったのも事実だが。


3Dの可能性

現在の日本国内の映画館の3Dは、XpanD方式が主流だ。
XpanDの特徴としては、
  ・安価で導入しやすい
  ・光量が足りなくて色味の再現度が低い
これに対してIMAX 3Dデジタルは、
  ・専用シアターが必要なので、導入コストが高い
  ・総じてスクリーンが大きく、音響と画質が良い

比較対象にならないくらい、IMAXのほうがハイクオリティだが、
いかんせん導入している映画館がまだ少ない
『ダークサイド・ムーン』に関して言えば、
IMAXで観なければ意味がない、とさえ感じられるほどだ。

3Dの課題としては、
被写界深度の深い映像が宿命づけられてしまう点も挙げられる。
被写界深度を浅くして、画面のいずれかにピントを絞った映像だと、
ピントの合っていない箇所とのズレに、気持ち悪さを覚えてしまう。

一方で被写界深度を深く、画面全体にピントが合うような映像だと、
「いまスクリーンの中心(見せたいモノ)が何か」わからなくなる。
舞台や演劇を観る感覚に近くなり、それはそれでナシではないが、
これまで蓄積されてきた「映画的な演出・表現スタイル」がフィットしない。
画面全体に広がるドカーンボカーンこそ、現状では最適な映像なのだ。

しかし思うに、IMAXで観たときの没入感は、ちょっと半端ない。
これに視点を誘導するような演出が違和感なく自在にできるようになったら、
サブリミナル以上に効果的な〝刷り込み〟も可能になるのではないか……
といった懸念も浮かぶ。

いま3D映画は、「シナリオがない」とか「映像しか価値がない」と評されがちだが
むしろジェームズ・キャメロンやマイケル・ベイ程度でよかったんじゃないか、と。
頭を空っぽにして、ポップコーンを頬張りながら
変身ロボ同士のドツキ合いに大ハシャギしているくらいが
「アトラクションの楽しみ方」としては、ちょうどいいのだろう。





2011年12月7日水曜日

水木しげるロード

2011年J2 36節 ガイナーレ鳥取ーFC東京を観に行ったついでに、
境港の水木しげるロードに寄る。
数々の妖怪に混じり、『悪魔くん』のブロンズ像もあった。

『悪魔くん』には複数のバージョンがある。
主人公の名前によって区別され、
・「松下一郎」版
・「山田真吾」版
・「埋れ木真吾」版
おもに以上の3つに大別される。

水木しげるロードの銅像は、「山田真吾」版である。
1966~1967年に講談社「週刊少年マガジン」に連載され、
のちに実写ドラマ化もされた。
オールド・ファンにとっていちばん馴染み深く、懐かしいバージョンであり、
だからこそ銅像のモデルとしても採用されたのだろう。

なお、1989年に放映された、
「エロイムエッサイム」の歌で有名なアニメは「埋れ木真吾」版である。
原作マンガは講談社の幼年誌「コミックボンボン」に連載された。



ちなみに、個人的に大好きなのは、「松下一郎」版だ。
これは、俗に「千年王国」の副題で知られている。
話の内容は、勧善懲悪的な他2バージョンとは大きく異なる。
〝悪魔くん〟松下一郎が、貧富の差もなく、戦争もない、
「万人が兄弟となる王国」を実現するため
十二使徒を使役し、現代社会に革命を起こそうとする話である。

背景の点描も、気が狂うほどの完成度を誇る。
売れていない時代の水木しげるの、
怨嗟のようなメッセージと画風がマッチした怪作だ。
この「千年王国」は、現在、ちくま文庫で容易に手に入る。






2011年12月3日土曜日

『恋の罪』 それを眺めて立ち去ることはできない


東電OL殺人事件の受け止められ方・変遷

園子温の新作『恋の罪』は、東電OL殺人事件に着想を得た作品である。
この事件は発生当時から世間の耳目を集め続け、
近年では外国人冤罪事件の代表例としても注目されている。

しかし、この事件でもっとも注目されたのは、なんといっても被害女性の素性だ。
一流企業に勤め、経済的に困窮しているわけではないにもかかわらず、
退社後には街娼として円山町に立ち、休日はSMクラブで働き、
「1日4人」というノルマをみずからに課していた……。
奇行も目立ち、〝円山町の白塗りお化け〟とも揶揄されていたようだ。

その特異なキャラクター性が、とりわけ一般女性たちの注意を引いた。
以前、井の頭線神泉駅付近に勤務していた頃、
現場アパートの所在地を尋ねる見学者によく遭遇した。
その大半は、女性であった。

『恋の罪』には、この被害女性をモデルにした人物が登場し
物語上、大きな役割を果たす。


セクシュアリティの解放は人間解放につながる、が……

『恋の罪』の物語は、人気作家の妻を軸にして進展していく。
貞淑な人妻が、ふとしたきっかけからヌード写真やAV撮影をするようになり、
性的に解放されていく課程で件の女性と出会ってしまう。

セクシュアリティの解放が人間解放につながるのは、一面、事実だ。
宗教や文化、道徳といった社会的な規範による行動の制約が強いほど、
人間は自分本来のセクシュアリティをあるがままに受容することが難しくなる。
そして、自分のセクシュアリティを受容できず、こじらせてしまうと、
そのエネルギーは他者への攻撃性へと転化してしまう。

『恋の罪』前半部分では、ひとりの女性が、
性を通じて生を獲得していく過程が描かれる。
わざわざ、イプセンの『人形の家』を引き合いに出すほど、
露骨なやり方で描かれていく。

80年代後半から90年代にかけて、中産階級のモラトリアムな女性が
売春を通じてアイデンティティを確立していくような作品は
おもにサブカル界隈において、
漫画、演劇、映画、小説を問わず、雨後の竹の子のように創作された。

『恋の罪』も、前半はそれに似た雰囲気を醸し出す。
しかし、意識的にパロディっぽく描くことで、かろうじて一線を越えない。
台詞回しや音楽の使い方が、絶妙に境界線上へと踏みとどまらせているのだ。
そして後半は、一気呵成に前半部分を転調させる。
それら「おしゃれズベタの売春自分探し」を徹底的に嘲笑うかのように。


闇に魅入られ、悪魔的になってしまった存在

それにしても、美津子のキャラクターが強烈だ。
ダンテを地獄に導くヴェルギリウスのように、いずみを性の地獄巡りにいざなう。
そのビジュアルは、まさしく〝白塗りお化け〟である。
美津子は『冷たい熱帯魚』の村田のような、
デモーニッシュな存在なのだろう、と思ってしまう。

しかし、彼女にも「母との対峙」という、人間らしい〝生い立ち〟がある。
その「母」こそが、真にデモーニッシュな存在であった。
このあたりの関係性が、美津子の闇を曇らせてしまったような気もする。
より深い闇を前にすると、影さえも見えなくなってしまう。

また、いずみが地獄へといざなわれる理由が、実は美津子の、
ほんの些細な悪意によるものであった点も、どう考えたものか悩んだ。
この件と、「母」との関係性により、
美津子の魔力は途中から急速にスケールダウンしてしまう。
彼女の闇が、陳腐になってしまったように感じられたのだ。
とはいえ、美津子をいざなった理由としては、

人間が心の安らぎを見いだせるのは墓の暗闇の中でしかないことを得心させるためにほかならない。同胞の悪意、情熱の錯乱、そして何よりも人の境遇につきまとう宿命を思えば、人間がこの世で平安を得ることなど永久にないからである。
マルキ・ド・サド『恋の罪』

との観点で見れば、なるほどとも思う。


そうとしか生きられない人間の叫びには
誰しもが同意できるわけではない


個人的には、『冷たい熱帯魚』がドンピシャでハマった作品だった。
「ここまでしなきゃ生きられない」という悲痛な叫びが、
ダイレクトに伝わってきてしまった。
ところが、今作『恋の罪』では「そこまでしなくても生きられる」と感じられた。
それには、自分が日本社会で男であること(=女ではないこと)が
大きく影響しているのかもしれない。

作中のデリヘルは、事件後にもぬけの殻になっていた。
「ラブホテルとはセックスをする場所」
「ホテル街とは、セックスをするために人々が集まる場所」と
作品冒頭でナレーションされたように、
人々の欲望で大きくなった街が、結局は事件後もその闇を温存しつつ、
われわれの生活圏のごく近くに今日もごろんと横たわっている。
闇に魅入られた者たちが、今日もそこに蠢く。
そのことが、恐ろしく感じられる者もいれば、
穏やかな抱擁に感じられる者もいるのだろう。

言葉がなければ、痛みは伝えられない。
しかし、言葉がなければ、湧き起こる感情に名を付けることもない。
そこに痛みを感じることもなかったはずだ。
作中でたびたび引用される田村隆一の『帰途』を反芻しながら、
自分の痛みが何処に存在するか、きちんと内感する必要性を感じる。