2016年12月22日木曜日

落語会「立川流が好きっ‼︎」に行ってきました

清澄白河の江戸資料館小劇場で開催された落語会「立川流が好きっ‼︎」に行く。

落語立川流の創始者で家元(立川談志)の孫弟子たちによって立ち上げられた会。
もともとは8月に新宿ロフトプラスワンで開催されたトークイベント「立川流が好きっ!!」が発端となった。
立川流の現状に危機感を抱いた立川吉笑さんが、同じ立場の孫弟子たちに呼びかけて、家元亡き後の立川流の現状についての意見交換を公開の場で行い、このメンバーで落語会をやろうと話し、実際に形にしたのがこの会だ。

2012年に立川志ら乃さんが著書『談志亡き後の真打ち』(宝島社)を出版した際に、志ら乃さんが新宿レフカダで出版記念のイベントを開催し、そこにサンキュータツオさんと吉笑さんがゲストで登壇した。このとき志ら乃さんは立川流に対する懸念をかなり強く抱いていた。
しかし、当時の吉笑さんは「兄さん(志ら乃)とはキャリアも立場も違うので、家元や立川流に対する思い入れも違う」「その危機感がよくわからない」と言っていたと記憶している。
なるほど孫弟子といっても一枚岩ではないし、こだわりや思い入れは人それぞれ違うものだなぁ、と感じた次第だが、今年8月のトークイベントでは、吉笑さんがその危機感を誰よりも強くアピールしていた。この4年のあいだ、落語に取り組み、世間と格闘してきた吉笑さんの現在地としての危機感や熱量に対し、ほかの演者が異なる角度から注釈をつけるようなトークイベントであった。

これがトークイベントのままで終わってしまったら、言いっぱなしの愚痴になってしまう。きちんと会として成立させ、230席のチケットをきちんと売り切って、満員札止めにしたのだから、素晴らしい。何か新しいことをやろうとすると、風当たりも強いだろうとは容易に想像できる。
それでも、きちんと会を立ち上げ、成立させたことこそ、落語協会を飛び出して落語立川流を創始した家元のイズムを体現する行為だったと思う。
客が味方につけば、正解なんだ。

また、6人とも落語が良かったのも素晴らしい。
1人あたりの持ち時間が20分程度だったせいか、あまりマクラを振らずに噺に入っていったので、「会の趣旨をくどくどと説明する」ことなく「芸で感じてもらう」意図が明確になった。
演者と客が入れ込みすぎず、それでいて熱量がある。
それは伝統芸能特有の緊密でウェットな関係性とは一味違う、かといって客と演者の間に張り詰めた緊張関係があるわけでもない。
乾いているけれど温度が高い。そんな熱だ。
正誤性や優劣の問題ではなく、これがこの会特有の熱の在り方であった。


立川こはる「真田小僧」
親父の不承不承な物言いに師匠(談春)の姿が重なる。
こまっしゃくれた小僧の、それでいて愛嬌のある憎めなさがなんともいえない。
いろいろな会で見かけるこはるさんのファンは、年配で上品な女性が多い。その方々が、本当に慈しむように笑い、楽しんでいる姿が印象的だった。

立川志の太郎「人間っていいな」
志の輔一門は立川流における出島のような存在だと感じている。
本土とは切り離されているけど、しかし世界の窓口になっている。
立川流に対する危機感が、外から見たときに「内輪もめ」に見えないようにするには、この人のスタンスや目線が意外と効いてくるのでは?
。外見的にはとてもスマートだけれど、その矜持を十分に見せたと思う。家元との思い出話も、やはり立川流のファンにはうれしく、場内を爆笑させていた。

立川談吉「天災」
以前、志らく師匠にお話を聞かせていただいた際に「落語はリズムとメロディ」とおっしゃっていたことを思い出す。リズムとメロディで気持ちよく聞かせる。リズムとメロディで持っていける噺ならもうお手の物で、今年やった「蝦蟇の油」もかなり合っていた。本人はその先を見据えているとは思うけど、そのあたりは演目次第なのかも。
「古いギャグを言う」こと自体がギャグになる(できる)という、それもまた立川流の孫弟子世代ならでは。

立川吉笑「一人相撲」
なんといってもこの会の最大の功労者。
以前は、テンションをあげてまくし立てたときのトーンが、聞き続けるのにスタミナを要していたけれど(※個人の感想です)、今年の春先くらいから急速に落語的な語りになって、ものすごく噺に集中できるようになった。ああ、この新作はこういう噺だったのか、といまさらながら気づくことの多い1年だった。著作とかメディア露出とか、この会の立ち上げとか、表立った部分で本当に忙しいなかでも、きちんと自分の芸を研ぎ澄ませているのだから、「追いかけ甲斐」のある落語家だと思う。

立川寸志「庭蟹」
逃げ噺といって、寄席なんかでは時間調整に用いる噺。
会の成立経緯から言っても、「俺が俺が」になってもおかしくない状況で、きちんと膝代わりの仕事をこなすのは素晴らしい。頭を休ませつつ、かつ場を冷えきらさず、時間を調整して、しっかりとトリにつなげていた。「会を成立させる」熱意、ここにも感じた次第。

立川志ら乃「粗忽長屋」
志ら乃さんの「粗忽長屋」は、シブラクや不動院やレフカダで今年は何度か見たけど、間違いなくこの日がナンバーワン。
落語の感想ってじつは難しくて、聞く側のコンディションも大きく左右するので、いったん自分の感想を棚投げして客観的に反芻することも大事だけど、見た直後の高揚感を抱いたまま「良かった」と言い残したい出来であった。
会場を出て駅までの道すがら、ほとんどの方が志ら乃さんの話題でもちきりだったから、自分の実感もそんなに外れてはいないと思う。

「立川流に対する危機意識」というのは、会の呼び水にはなるし、惹句としても優秀だ。
ただ、いったん会場に訪れたら、そのあたりのことは客としては実はどうでもよくて、会自体が楽しいかどうかが最大の関心事となる。
言い方は悪いが、「会1回だけで『立川流への危機感』への満額回答」が得られるとは思っていない。この日、足を運んだ客は、これから先何年かかるかわからないけど、「それに付き合ってやるぜ」って人が多かったのではないだろうか。
当初の危機意識の最終的な帰着点は、会を重ねるごとに少しずつ明瞭になっていくと思うので、なによりも続けていくことが大事なんだろうなぁ、と感じた。

通常、演芸はスポーツ観戦と異なり、勝ち負けによる客の勘定の浮き沈みは存在しない。ところがこの会の終演後は、「ひいきチームが勝った後のスポーツ会場」のようなムードがあったのは事実で、これはやはり特殊な会である。




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