2011年12月3日土曜日

『恋の罪』 それを眺めて立ち去ることはできない


東電OL殺人事件の受け止められ方・変遷

園子温の新作『恋の罪』は、東電OL殺人事件に着想を得た作品である。
この事件は発生当時から世間の耳目を集め続け、
近年では外国人冤罪事件の代表例としても注目されている。

しかし、この事件でもっとも注目されたのは、なんといっても被害女性の素性だ。
一流企業に勤め、経済的に困窮しているわけではないにもかかわらず、
退社後には街娼として円山町に立ち、休日はSMクラブで働き、
「1日4人」というノルマをみずからに課していた……。
奇行も目立ち、〝円山町の白塗りお化け〟とも揶揄されていたようだ。

その特異なキャラクター性が、とりわけ一般女性たちの注意を引いた。
以前、井の頭線神泉駅付近に勤務していた頃、
現場アパートの所在地を尋ねる見学者によく遭遇した。
その大半は、女性であった。

『恋の罪』には、この被害女性をモデルにした人物が登場し
物語上、大きな役割を果たす。


セクシュアリティの解放は人間解放につながる、が……

『恋の罪』の物語は、人気作家の妻を軸にして進展していく。
貞淑な人妻が、ふとしたきっかけからヌード写真やAV撮影をするようになり、
性的に解放されていく課程で件の女性と出会ってしまう。

セクシュアリティの解放が人間解放につながるのは、一面、事実だ。
宗教や文化、道徳といった社会的な規範による行動の制約が強いほど、
人間は自分本来のセクシュアリティをあるがままに受容することが難しくなる。
そして、自分のセクシュアリティを受容できず、こじらせてしまうと、
そのエネルギーは他者への攻撃性へと転化してしまう。

『恋の罪』前半部分では、ひとりの女性が、
性を通じて生を獲得していく過程が描かれる。
わざわざ、イプセンの『人形の家』を引き合いに出すほど、
露骨なやり方で描かれていく。

80年代後半から90年代にかけて、中産階級のモラトリアムな女性が
売春を通じてアイデンティティを確立していくような作品は
おもにサブカル界隈において、
漫画、演劇、映画、小説を問わず、雨後の竹の子のように創作された。

『恋の罪』も、前半はそれに似た雰囲気を醸し出す。
しかし、意識的にパロディっぽく描くことで、かろうじて一線を越えない。
台詞回しや音楽の使い方が、絶妙に境界線上へと踏みとどまらせているのだ。
そして後半は、一気呵成に前半部分を転調させる。
それら「おしゃれズベタの売春自分探し」を徹底的に嘲笑うかのように。


闇に魅入られ、悪魔的になってしまった存在

それにしても、美津子のキャラクターが強烈だ。
ダンテを地獄に導くヴェルギリウスのように、いずみを性の地獄巡りにいざなう。
そのビジュアルは、まさしく〝白塗りお化け〟である。
美津子は『冷たい熱帯魚』の村田のような、
デモーニッシュな存在なのだろう、と思ってしまう。

しかし、彼女にも「母との対峙」という、人間らしい〝生い立ち〟がある。
その「母」こそが、真にデモーニッシュな存在であった。
このあたりの関係性が、美津子の闇を曇らせてしまったような気もする。
より深い闇を前にすると、影さえも見えなくなってしまう。

また、いずみが地獄へといざなわれる理由が、実は美津子の、
ほんの些細な悪意によるものであった点も、どう考えたものか悩んだ。
この件と、「母」との関係性により、
美津子の魔力は途中から急速にスケールダウンしてしまう。
彼女の闇が、陳腐になってしまったように感じられたのだ。
とはいえ、美津子をいざなった理由としては、

人間が心の安らぎを見いだせるのは墓の暗闇の中でしかないことを得心させるためにほかならない。同胞の悪意、情熱の錯乱、そして何よりも人の境遇につきまとう宿命を思えば、人間がこの世で平安を得ることなど永久にないからである。
マルキ・ド・サド『恋の罪』

との観点で見れば、なるほどとも思う。


そうとしか生きられない人間の叫びには
誰しもが同意できるわけではない


個人的には、『冷たい熱帯魚』がドンピシャでハマった作品だった。
「ここまでしなきゃ生きられない」という悲痛な叫びが、
ダイレクトに伝わってきてしまった。
ところが、今作『恋の罪』では「そこまでしなくても生きられる」と感じられた。
それには、自分が日本社会で男であること(=女ではないこと)が
大きく影響しているのかもしれない。

作中のデリヘルは、事件後にもぬけの殻になっていた。
「ラブホテルとはセックスをする場所」
「ホテル街とは、セックスをするために人々が集まる場所」と
作品冒頭でナレーションされたように、
人々の欲望で大きくなった街が、結局は事件後もその闇を温存しつつ、
われわれの生活圏のごく近くに今日もごろんと横たわっている。
闇に魅入られた者たちが、今日もそこに蠢く。
そのことが、恐ろしく感じられる者もいれば、
穏やかな抱擁に感じられる者もいるのだろう。

言葉がなければ、痛みは伝えられない。
しかし、言葉がなければ、湧き起こる感情に名を付けることもない。
そこに痛みを感じることもなかったはずだ。
作中でたびたび引用される田村隆一の『帰途』を反芻しながら、
自分の痛みが何処に存在するか、きちんと内感する必要性を感じる。







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